2013年7月28日日曜日

ウサギは可愛い

ウサギが生まれました。
如何でしょう。













フニフニ フニャフニャ













脱力した感じがなんとも。

人が手を出すと、母親が育児放棄をすることがあるということで、いままで、手を出さず、見守っていました。
生後3週間で初お目見え。
ベタンとなっているのは、足の裏まで、モコモコ毛が生えて、机の上は、足が滑って踏ん張りが利かないから。
ウサギの小屋へ戻ればもうひょこひょこ歩きます。

お披露目には、可愛いと皆さん絶賛。
当然だと思います。
そりゃ可愛い。
とっても可愛い。

ウサギは、大人になってもモコモコしていて、顔をなめる仕草や、もそもそえさを食べる様子が可愛い。
だからウサギは可愛い。
ウサギ派の人々(女に人に多い…ような気がする)にとっては、ウサギが可愛いのは絶対の真実。

しかし、ウサギ派(女性の割合が、多分、高い傾向)に対して懐疑的な意見を持つ人も、それなりに居ると言うことを申し上げたい。

もちろんウサギは可愛らしい、そういう存在であることは認めます。
可愛くないとは言いません。

しかし、ペットとしてかわいいと言えるのか。

ペット界では、イヌ派とネコ派の対立が時折クローズアップされます。
イヌ派によれば、ネコは、飼い主に対するリスペクトにかけるのではないか、そこのところが、ペットとして如何なものかというような論調。

イヌとネコを比較すれば、イヌは飼い主に対して従順、ネコのほうは飼い主に対し依存というような態度の違いはあります。
しかし、飼い主に対し、犬ならば尻尾を振って走りより、ネコなら足元にまとわりつき(時もある)、それなりに、ペットから、自発的に親愛の情を示し、コミュニケートをしてきます。
イヌ派ネコ派の違いは、コミュニケーションの違い。

ところが、ウサギ派。
人が寄ってきても、逃げないと言うのが最大級の親愛の態度。
抱いたら、体をよじ登ろうとするとか、わきの下あたりに頭を突っ込むとか、そういう能動的なコミュニケーションはまったく無し。
ただ、膝の上でじっとして、鼻をフコフコさせてるだけ、ゲージの中に居るときと格好は一緒。
愛想無さ過ぎ。

うちのたけちゃん(豚、大ヨークシャー、雄)だって呼べば寄ってくるし、撫でてやればもっとこの辺触ってみろと言う感じに擦り寄ってくる。
こういうところが、欠けている。

ウサギが撫でられて、目を細めている光景なんて見たことありますか。
フコフコのテンポさえ変わらないでしょ。

そのくせ、水を飲ますと下痢するから、水分は青物を喰わせとか。
なのに、しなびた野菜には口をつけなくなるので、取り替えないといけないとか。
おしっこもウンコも躾けられないので、飼ってるゲージの下に引いた新聞紙を頻繁に変えないといけないとか。
そこそこ世話は大変。

だのに、世話をしている人にだけ懐いたというより、単純に、誰彼無く、人なれしたというような大雑把な態度。

なんか、ペットにあるべき忠誠心、飼い主との間に築かれるべき主従関係と言うものが、ウサギとの間には無いのではないか。
膝の上でじっとして、ただフコフコして、目もあわせない態度は、ネコのフンッというあのツンデレのデレすら感じられない。
もう、あれじゃ、苦しゅうない、良きに計らえ的な上から感すら感じてしまう。
ウサギ派の人々は、その愛らしい姿と仕草に惑わされ、ウサギの下僕になっているのではないのかと我々懐疑派は思うのであります。

このような、ウサギに対する憤りをウサギ派の方にぶつけた所、エー可愛いじゃん、大人しいし、邪魔にならないし、変なのと一蹴されました。

どうも、感じ方に大きな断絶があるような気がします。
なんだろうと、つらつら考えるに、思い当たったのは、時計と指輪。

お金持ちじゃないので、手に負えないようなものに例えてしまったかなと言う後悔もありますが、話を進めさせていただきます。

時計は、やはり、その時を刻む能力にこそ価値がある。
機能が備わってこその美しさ。
何時かなと眺めるときに、綺麗でよかったと思う。

でも指輪は違う(まぁ質に入れたら一財産、的な機能はあるにしても)。
美しいのが一番と言うか、美しい以外に何がある。
うっとり眺めるそれこそが目的。
眺めてどうすんのというのは、愚問。

愛想なんか無くても問題なし。
撫でてうっとり。

ウサギは、もう存在自体が可愛い。
眺めてうっとりが、飼い主の醍醐味。
ダイヤモンドみたいに可愛いってことだ。